結愛(ゆあ)ちゃんのために

僕は週に数回ほど友人にヨーガを教えているが、一連のヨーガ・ポーズを行った後には決まってリラクゼーションのポーズ(シャバッサナ)で終えることにしている。これは多分大方のヨーガクラスでは共通の決まり事であろうと思う。5分ほどのシャバッサナを終えて徐々に体を起こすようにガイドするわけであるが、体を起こす前にしばらく膝を曲げて横向きに寝た状態にさせておく。この状態をフィータル・ポジションと呼ぶのだが、つまり、母親の子宮の中にいる胎児のポジションを模しているのである。そこで「しばらく、平和な気持ち、安らかな気持ちを感じてください」と言う。「かつてお母さんのお腹の中で感じたはずのあの優しかった感じです」と付け加える。

先日、友人相手のヨーガクラスでいつものようにこのように言おうとして言葉が詰まってしまった。どういうわけか、その時不意に結愛ちゃんのことが頭をよぎったからだ。結愛ちゃんというのは昨年3月に東京目黒区で起きた児童虐待事件で亡くなった5歳の女の子のことだ。ここ数日のニュースでその審理の様子が頻繁に報道されていた。新聞のオンライン記事にも、被告である母親が検察官の質問に答えるその内容が紹介されていた。結愛ちゃんにとってはお母さんこそ唯一の「味方」であったはずだ。その唯一のお母さんが守ってくれないとしたら、それは夫とともに「虐待する側」に立ったも同然である。その時の5歳の小さな女の子の絶望と孤独はどれほどのものだったか。それでも最後までお母さんだけは信じて頼りにしていたと思う。かつてその母親のお腹の中で大切に守られて、この世界に生まれるまで優しく守ってくれた「お母さん」に対する体に染み付いた信頼は、この世界に生まれ出たのちであっても永遠に変わらないと信じて疑わなかったはずだから。それがたった5年で裏切られたのだ。命が奪われたことよりも信頼が裏切られたことの方がむしろ深刻な問題なのだと僕は感じた。そう思うと本当に悲しくてやりきれなくなる。

かつて明治初期の日本を旅した英国の女性旅行家イザベラ・バードは、日本人が等しく子供を可愛がる姿に感銘を受けた。特攻で命を捧げた英霊達は「お国のため」とは言いながら、本当は故郷の大切な人たちを守るために自らの命を犠牲にした。現代日本では児童虐待やドメスティック・バイロレンスが年々増加傾向にあるらしい。先日の常磐道あおり運転の事件でも人間性の零落という現実を見た思いだった。相手を弱者と知って恫喝し暴力を振るう。それで自分が強くなったつもりでいるのだろうか。英霊達が今の日本の現実を見たら「こんな日本と日本人を残すために俺たちは命を捧げたのではない」と言われるかもしれない。僕たちは命懸けでこの国を守ってくれた先人達に顔向けができるのか。

本当の強さ、本当の優しさ、本当の勇気とはなにかを、今こそ僕たちは先人に尋ね求めるべきではないか。今も暴力に震えながらひたすら耐えているたくさんの「結愛ちゃん」たちのために。そしてこれから世界に生まれ出ずる未来の子供たちのためにも。


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