出てゆく時は独り

ここ数年来、教会が持っていたプロパティーはどんどんと売却されてきた。教会としては無駄に税金を取られるくらいなら、採算の合わない不動産はさっさと売却して現金化したいところだろう。それもわかるが、その度ごとに、そこに住んでいる住人たちは否応なしに出ていかざるを得なくなったのである。

今年もそのプロパティー売却の嵐が吹き荒れた。その煽りをくらって我が家庭もエビクション(立ち退き)の危機に瀕したのである。実は、僕らが追い出されたわけではなく、追い出された家庭(ババ家)が僕らの家庭を追い出すという状況になったのである。つまり、教会のプロパティーに住まわせてもらっている立場としては、組織の中のパワーバランスには従わなければならないという現実を目の当たりにしたわけだ。

教会のために働いていない僕がこのプロパティーに住んでいるのはおかしいという無言の圧力を感じたが、妻は一応スタッフなのだからここにいられる権利はあろう。最終的には擦った揉んだの末、この家( K-House )をババ家とシェアするという妥協案で落ち着くことになった。エビクションの危機は一応は回避されたのである。しかし、そのため、長女には早々にアパートを見つけて引っ越してもらわねばならなくなった。

K-House がシェアの方向になったということは、つまり、これからも妻の居場所は保証されたも同然ということだ。最後のディペンデントである次男は、ディペンデントゆえに、ここに居ても許される立場である。もっとも、本人はカレッジが決まれば嬉々として親元を離れてゆくに違いないが、休暇中に帰ってくることに何のわだかまりもないだろう。

しかし、僕の立場は違う。

妻が僕を必要とせず、僕も妻を必要とせず、もちろん教会は僕を必要とせず、僕も教会を必要としないのであれば、誰がどう見ても僕がここに居ることは理にかなっていない。かろうじて TN造園さんが僕を必要としてくれて、そのおかげで僕も稼げるのだから、誰に疎まれようともここに居座る動機が保てるというものだ。しかし、そうしていられるのもせいぜいあと1年(長くとも2年)くらいのことだろう。妻よりも日本の母の方が僕を必要としているならば、より求められている場所に身を置くべきなのは当然のことではなかろうか。

必然的に、ここを出て行くのは僕ひとりきりという結論に至る。

昔も今もひとりきりなのは変わりがない。どこに行こうと僕は孤独であったのだから、これからもそうであっても僕は一向に構わない。共感し合えないかりそめの仲間を増やすくらいなら一人でいた方がよっぽと良い。そう思って僕はこれまで孤独を愛してきたのだけれど、心の片隅ではいつも本当の仲間を探していたのかもしれない。この歳になってもその希望をまだ持っていられるのは、ネットというコミュニケーション手段が普及したおかげであろう。

僕はそのうちここを一人で出て行くことになるだろうけれど、それは仲間に会うためである。ここにいたらいつまでも本当の仲間に会うことはできない。なぜならここは本当の自分を隠す隠れ家のようなところだから。本当の自分をさらけ出さなければ本当の仲間には会えるはずもないではないか。出て行く時は独りだけれど、出て行く先には仲間が待ってくれている。そんな下地が作れるように、僕は「本当の自分」をアウトプットする努力を、これから地道に積み重ねてゆきたいと思うのである。

本当の自分をさらけ出している人々がネットにはこんなにもたくさく溢れているではないか。彼らの「勇気」に僕は脱帽する。願わくば僕もそんな「勇気ある人」の一人になれることを。

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