投票にゆく

参議院選挙の投票のために日本総領事館に行ってきた。在外公館での投票は今日が最終日だ。

人は見かけで判断してはいけないと言われるが、選挙ほど人を見かけで判断せざるを得ないものはないと思う。候補者もそれをよくわかっているから出来るだけ見かけをよくしようと最大限の努力を払う。HPをチェックしても良いことばかり書いてあるから、この限りでは候補者は皆良い人だ。

僕は個人的には苦労人志向である。そして、最初から政治家であった人よりも、他の業種を経験して現場の苦労を知っている人を選びたいと思っている。(つまり「苦労」を「売り」にしている人に弱い)ところで、現在の小選挙区制では支持政党で絞ると自分の選挙区で投票するべき候補者はすでに決まってしまう。問題はその候補者が「自分好み」でない場合である。学歴コンプレックスが潜在意識に潜んでいる僕は学歴をひけらかすような輩はまず排除したくなる。順風満帆で人生を渡り歩いてきた人も対象外だ。ところが我が選挙区の候補者はそんな僕の志向と比べたら全く真逆な人だった。こうなると考え込んでしまう。いっそのこと支持政党ではないけれど、こちらの爽やかな顔立ちをした熱意の溢れていそうな青年に一票入れてしまおうかと真剣に考えてしまう。

幸い比例代表というのもあるから、こちらでは自分の納得できる候補者を選ぶことができた。選挙区の方では、悩んだ末、結局「日本の政治」全体を考慮して支持政党を優先して投票することにした。まあ、何れにしても個人的にその人となりを知っているわけではないので人を「見かけ」で判断したに過ぎないのかもしれないが。

投票はある意味「祈り」みたいなものである。国政選挙とは「日本」がもっと良い国になってほしいという「祈り」を込める国民的行事であるとも言える。「祈り」には効果があるのか。「ある」と真面目に信じた時代が僕にはあった。最も強く祈った者の「祈り」が神様に聞き届けられるのだと。K国のキリスト教には喚いたり泣き叫んだりしながら祈る宗派があるが、彼らはおそらくそう信じている。今の僕から見れば神様の前にただゴネているようにしか見えないが。それに神様はそんなに耳が遠くはないだろう。

イエス様は最後の時に「できればこの盃を私から過ぎ去らせてください」と祈った。しかし、そのあとで「しかし、みこころのままになさってください」と付け加えた。神様は誰の祈りでも聞いてくださっていると思う。しかし千差万別である無数の祈りが同時に叶うはずもまたない。「みこころのまま」になるしか結局はないのである。しかし、真摯な「祈り」は、その清廉な波動は、いつかどこかで誰かや何かのために、どんな形であれ、実を結ぶときが来るのだと僕は信じたい。

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