墓をたずねて三千里

“Boys, be ambitious!” 「少年よ、大志を抱け!」という有名な言葉は、札幌農学校(現・北海道大学)の初代教頭として招かれたウィリアム・スミス・クラークが、その9ヶ月間の勤めを終えて、教え子たちの前を去る際に叫ばれた言葉だとされる。

実は、その「名言」に関しては諸説があって、“Boys, be ambitious like this old man.” 「若人たちよ、野心的でありなさい。この老人(自分)のように。」と言ったとも、”Boys, be ambitious in Christ.” 「キリスト(の御名)によりて、少年たちよ、大きな志を抱きたまえ」と言ったとも伝えられる。また、”Boys, be ambitious! Be ambitious not for money or for selfish aggrandizement, not for that evanescent thing which men call fame. Be ambitious for the attainment of all that a man ought to be.” 「少年よ、大志を抱け!カネや利己的な思い上がりのためではなく、あるいは人々が「名声」と呼ぶあの儚いもののためにではなく、–––– 人が人としてあるべき全てを成すために、大志を抱け。」と言われたという説もある。

僕は20代の頃に6年間札幌に住んでいたこともあって、クラーク博士には少なからず慕わしい感情を持っていた。かの「名言」も当たり前すぎるほどよく知っていたが、「少年よ、大志を抱け!」に続く言葉があったなんてことは(しかも、諸説あったということは)想像することさえもなかった。実はそれを知ったのは僕が札幌を離れて何年も経ってからで、それも、なんとフジテレビのドラマ「Dr.コトー診療所」を観ているときのことだった。エピソードの中に、コトー先生が島の少年に英語の辞書とともにかの「名言」を送る場面があったからだ。そのとき「カネや名誉のためではなく、人間としての本分を遂げるために、大志を抱け」との言葉が続くことを知って、めちゃめちゃ感動したのを覚えている。思わずクラーク博士像を抱きしめたい衝動に駆られたくらいである。もう僕は札幌にはいなかったのだけれどね。

クラーク博士は、札幌農学校一期生たち一人一人と握手を交わすなりヒラリと馬背に飛び乗り、去り際にこの言葉を発したと伝えられている。しかし、よくよく考えてみれば、去り際に、しかも、馬上からそれほど長い言葉を述べるというのは少々不自然なような気がする。やはりシチュエーション的には “Boy, be ambitious!” か “Boys, be ambitious like this old man!” が適当なのかと思われる。それなら、僕を感動させた「後に続く言葉」は後世の創作だったのかという疑問が生じてくる。確かに日本人ウケするようにうまく編纂された文言である気もする。その真偽は確かめようもないが、クラーク博士は普段からよく “be ambitious” という言い回しを口にしていたようだ。だから、あの「後に続く言葉」は、普段から周囲に伝えていた彼の信念や理想であった可能性が高い。それをよく知っていた人物が後世になって付け加えたとも考えられるのだ。しかし、たとえそうであったとしても、それがクラーク博士の言葉であったことには違いがない。

クラーク博士は9ヶ月間の札幌滞在を終え、翌年の1877年に日本を離れた。母国アメリカに戻った後も、日本の若者たちに教えたように、自らの信念を実践し続けた。しかし、いくつかの大きなプロジェクトを進めたものの、どれも結果的には失敗し、晩年は不運続きであったようだ。以下は Wikipedia からの引用である。

帰国後はマサチューセッツ農科大学の学長を辞め、洋上大学の開学を構想するが資金が集まらず頓挫、生活費に困るようになっていたときに出資者を募って知人と共に鉱山会社「クラーク・ボスウェル社」を設立して7つの鉱山を買収、当初は大きな利益を上げたが、その知人が横領を繰り返し、果てに逃亡、設立から1年半で破産、負債は179万ドルにのぼった。叔父から破産をめぐる訴訟を起こされ、裁判で罪に問われることはなかったが、晩年は心臓病にかかって寝たり起きたりの生活となり、1886年3月9日、失意のうちに59歳でこの世を去った。(Wikipedia – ウィリアム・スミス・クラークより)

クラーク博士はイエスを愛する純粋なクリスチャンであったことは疑いの余地がない。キリスト教の理想を自らが模範となって示そうとした人物だったのだ。だから、札幌農学校での教え子たちが「イエスを信ずるものの契約」に次々に署名したのである。

しかし、純粋なるキリスト教理想を抱くクラーク博士が母国で立ち向かわなければならなかったのは、のちにアメリカに留学した内村鑑三を失望させたような、キリスト教国家にはびこる拝金主義や人種差別などの「現実」だったのではなかっただろうか。–––– そんなクラーク博士の胸中を推し量りたいと僕は思った。そして、その機会は奇しくも僕の渡米生活25年目にして訪れたのだ。

2016年、娘(次女)が大学生になった。
入学したのはクラーク博士の母校、マサチューセッツ州にあるアマースト大学である。この大学は新島襄や内村鑑三の母校でもある。学内には同志社大学との絆を祝して造られた「友志園」という日本庭園もある。日本の外務省からも新人外交官の語学研修生が派遣されるという、何かと日本と縁のある大学なのである。娘が在学中だった2020年までに幾度となくここを訪れたわけだが、ある時ふとクラーク博士を訪ねてみようかと思い立った。2018年の6月のことだ。調べてみると、クラーク博士の墓所はアマースト町のダウンタウン内にあるウェスト・セメタリーというところにあるらしい。マップで調べてみると、なんと大学から歩いて数分のところである。娘を寄宿舎に送った後に僕は妻と二人で訪ねてみることにした。

クラーク博士は死の間際まで、札幌で過ごした9ヶ月の期間を「人生で最も輝いていたとき」と考え、非常に懐かしんでいたという。僕の心にも宿る札幌を懐かしく思う共通の「気持ち」が、時空を超えて「彼」のもとへ引き寄せたのかもしれないと僕は思った。

ウェスト・セメタリーは広かった。当てずっぽうで探すも、簡単に見つかるはずもない。僕らは墓標の文字を確認しながらずーっと奥まで歩いて行った。墓石の大きさは、この国の貧富の格差を象徴するかのように、大きなものから小さなものまでいろいろある。「有名な人なのだから、きっと大きくて立派な墓に違いない」と思ってみたり、「いや、100年以上も昔の墓なのだから、案外、小さくてみすぼらしいお墓かも」と思い直してみたり、たくさんの中からお目当てのものを探し出す作業は、存外、楽しいものだ。奥まで行っては戻り、また列を変えては同じことを繰り返した。そして、それはあった。灯台下暗しで、結局はセメタリーの門を入ってすぐのところに鎮座されていたのだ。それなりの大きな墓石であったが、やはり年季を感じさせた。

まずは、しばしの黙祷を捧げる。僕はかつて過ごした北海道の風景、札幌の街並み、北大構内の風景などを心に思い描いた。そして、札幌で見たクラーク博士の像を思い出していた。北海道大学の構内に胸像が一つ。羊ヶ丘展望台に全身像がある。そういえば大通公園にあるホーレス・ケプロン像をずっと長い間クラーク博士像だと思い込んでいたな。あの時は失礼しました。それから記念撮影。墓石には “WHOSE LIFE AS A TEACHER, SOLDIER AND CITIZEN WAS DEVOTED TO THE SERVICE OF GOD AND HIS FELLOW MEN”「教師として、兵士として、そして市民として、神と人々のために捧げた生涯」と刻まれている。クラーク博士は愛国者でもあり、生粋のクリスチャンでもあられたのだ。

墓石の後ろには桜と思しき木が大きく茂っていた。樹齢はきっと100年は超えているだろう。もしかしたら、その昔、クラーク博士とゆかりのある日本人の誰かが植樹をしたのかもしれない。あくまでも僕の勝手な想像だが、その桜はクラーク博士の日本への思慕を象徴しているようにも思えた。この日は6月だったから、この木が桜であることを確認するためにも、花の咲く頃にもう一度ここを訪れてみたいと僕は思った。

この記事のタイトルにある「三千里」は、およそ12,000kmの距離であるらしい。札幌からアマーストまでの距離は直線距離でおよそ10,000kmである。あくまでも直線距離だから、実際は上がったり下がったり、ニューヨークを経由したり、ボストンを経由したりと諸事情が伴うことを考えれば「墓をたずねて三千里」と言ったって、あながち間違ってはいないだろうと思うのだが –––– 。いかがでしょうか? クラーク博士。

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