悔しさを思い出せ

悔しさを思い出せ

ポジティブ思考が大事だというけれど、実際、人を何かに駆り立てるのは「ネガティブ」な感情であることが多い。「不安」や「恐怖」、「後悔」や「怒り」などである。そういえば「『怒り』こそ自分の原動力だった」と語ったノーベル賞学者がいたことを思い出す。「怒り」のエネルギーには確かに凄まじいものがあるだろう。彼のすごいところはそのエネルギーを別の有意義な方向(つまり「研究」)に「転化」させたことにある。それを心理学では「昇華」というらしいが、人類が世に送り出してきた数々の偉業の背景には、案外多くのこの「昇華」作用があったものと思われる。

人はネガティブな感情を味わうとそれを取り除くような自己防衛反応を起こす。酒を飲んで管を巻くなんて次元から、果ては「犯罪行為」まで色々ある。日本人によくある「泣き寝入り」というのもその一つだ。「泣いて寝てしまえば嫌なことも忘れてしまうさ」という、ある意味、最も消極的な、最も賢明な自己防衛反応であるかもしれない。しかし、誰にも害を及ぼさない分、自分の中に溜め込む結果となり、ある日、その許容量が一杯になった時、精神的にも肉体的にもおかしな具合になってくる。だから、今のところ人が健全に人生を送るためには、①「ネガティブ」な感情を避ける生き方をする(ポジティブ思考で生きる)②「ネガティブ」な感情に捉えられたら「昇華」という方法で自己防衛・自己実現を図る、という2点が最良の選択肢であるといえよう。

しかし人生を「魂の成長の場」と捉えると、① の「ポジティブ思考」だけで人生を乗り切るなんてことは到底無理であることに気づく。人生はこれでもかこれでもかというほど人に「ネガティブ」な出来事を投げかけてくるからだ。しかしこれらを処理してこそ、初めて魂の成長が見込まれるのであり、実はそれこそが、今、私があなたがこの地上で肉体を持って生きている目的と言ってもよいわけだ。そこでなんとかして ② の「昇華」活動に持ち込みたいと考えるわけだが、その努力が実るのは一握りの「天才」かあるいは一生に一度の運気が巡ってきた時だけかと思うほど、おいそれとは成功しないものである。

かくいう僕もここ数日精神的に落ち込むだけでなんとも力が湧いてこないので「行動力の神様、私に力を与え給え」と祈るしかなくなった。そうしたら神様から「悔しさを思い出せ」という啓示が降った。「『怒り』をエネルギーに変えよ」ということかと悔しい思いをしたことを次々と思い出してみた。僕の人生この点枚挙にいとまがない。しかし、その「怒り」のエネルギーも忘却とともに弱まり、僕を具体的に行動に駆り立てるだけの力は湧いてこない。もしかしたら「昇華」に成功する人物はものすごく自尊心の強い奴か、ものすごく「ネガティブ」な感情を味わわされた奴か、あるいはそのどちらの条件も兼ね備えた場合に限るのかもしれないな、と思えてくる。いずれにしても「昇華」に成功するのも特別なケースに限られた話で、どうやら僕の場合はその基準に達していないようなのである。

僕は何か新しい本を選んで読み始めることにした。アマゾンのウィッシュリストの中に入れておいた本を眺めてみるとアーユルヴェーダの本が85%オフになっていた。「これは絶対に買いだな」と思ったが、今僕が読むべき本はこれではなくこっちだと確信して “A Course in Miracles” という本を購入した。これはニューエイジ思想のクラシックとも言える本であるが、3年前に注釈がついた新バージョンが出版されていた。スピリチュアル・アドバイザーになるための必読書と考えていつか読もうと思っていたのだが、ついにその時が来たのかもしれない。まだ Introduction を読んだだけであるが僕はそれなりに手応えを感じた。

僕が神様から受けた「悔しさを思い出せ」という啓示は「人間の『エゴ』に気づけ」という意味だったのかもしれない、と僕は “A Course in Miracles” を読み始める中で思った。「不安」や「怒り」は何故起こるのか。「自尊心」の根源は「エゴ」ではないのか。守るべき「自己」とは何なのか。侵害されたら「怒り」や「不安」を感じるとすれば不幸の原因はこの「自己」にあるのかもしれない。それだけ人間は「自己」に囚われた存在だということなのだから。「怒り」と「自尊心」から発動する力は確かに人類を進歩させたかもしれないが、それと同程度に人類に「不幸」をもたらしたような気もしてならない。もしもこの「エゴ」を取り除けたとしたらそこに残るものは何だろう。僕は、その時「本当」の原動力がそこから湧き出ずるような気がした。その力の源泉は「愛」である。

僕は「愛」を知らない。たぶん地球上の人類の中で本当の「愛」についてわかっている人は多くはないのだろうと思う。だけど「愛」を原動力として活動した聖人たちが人類史上現れたことは確かだ。その代表者が二千年前に現れたイエス・キリストだと言われても僕には異論がない。歴史的なイエスはキリスト教会が教える神格化されたイエスとは異なり、むしろヒンズー教のリシのような人だったと僕は信じている。”A Course in Miracles” はアメリカ人心理学者ヘレン・シャックマンがイエス・キリストと思われる内なる声を聞いて書いたとされるが、それは完全に歴史的イエスのことであり、キリスト教会の主張するイエス像とは異なることを示唆している。ヨーギである僕がこの本に惹かれたことにも意味がある。

とにかく僕はこの本を読み進めることにした。そこには「エゴ」を取り除き愛を発動させる方法が説かれている気がしているから。僕のブログには途中途中でそのレヴューを書いてゆきたいと思っている。人が「怒り」と「自尊心」からではなく、純粋に「愛」を動機として行動を起こせるようになれたならどんなに素晴らしいことだろうか。僕自身もできるだけそのレベルに近づけるように努力したいと思う。


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