アボジを憐れに感じた日

アボジに「憐れ」を感じた僕はどういうわけか泣いた。
一人の人間として彼を捉えたとき「憐れ」以外の表現を僕は思いつかない。尊大を極限まで演じ通したかったその「愚かさ」に僕はもう憤りを感じない。崇め奉られることにそれほどまでに固執したかったのか。それは気分が良いことでしたか。僕ならさっさと逃げてしまうがね。何故なら崇める方は間違いなく100%の自己陶酔状態であることを知っているから。つまり本当のところあなたのことなどこれっぽっちも心配はしていないのさ。結局は信者たちも近親者たちも妻も息子も娘たちも揃いも揃ってあなたを寄ってたかって裸の王様に祭り上げただけに過ぎなかったのではないですか。大言壮語を吐くだけ吐いて、しかし、本人はついに国のためにも世界のためにも「誰か」のためにも結局は死ぬことができずに、ただの凡人のように「老い」に弄ばれて、病院の白いふかふかベッドでシリコンチューブに繋がれて逝ってしまった。「この人があのイエス・キリストの再臨で人類の救世主でしたよ」と言おうものなら、硫黄島でサイパンで沖縄で玉砕した日本兵たちも、あまりの可笑しい冗談に生き返ってしまうかもしれないほどだ。

アボジは確かに人とは違った特別な能力を備えていたのだろうと思う。それは教祖となる人によくあることだが「人の心がわかる」能力だったのかもしれない。そんな小さな特殊能力があの民族にかかるとなんでも針小棒大に膨らんで、しまいには「再臨のメシヤ・人類の真の父母様」にまでなってしまったのだから驚きだ。アップグレードをどんどんと推し進めていってもう後には戻れない、ダウングレードはもうできない状態である。本当のあなたはアップグレードもダウングレードもなく、あなたは「あなた」なのだけれど、本人もそれに気づかない。ましてや、まつりあげてきた取り巻きたちにおいてはなおさらだ。エゴの赴くままに偽りの構築物(エゴの隠れ家)を次から次へと作り上げてしまった。信者が賞賛するのはあなたではなくあなたのエゴが作り上げた構築物だ。信者が愛するのもあなたではなくあなたのエゴが作り上げた構築物だ。本当のあなたを愛するものは一人もいない。その事実はあなたもあなたの取り巻きたちも誰一人として気づかなかったに違いない。

僕ははっきり言ってあなたのエゴが作り上げた構築物には全く興味がない。メシヤとして崇め奉ることもとうの昔にやめた。だが、本当の「あなた」は愛していたいと思う。それはたぶん「友になる」ということなのだろう。

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