親父が死んだ本当の理由

宗教とは何か

宗教は千差万別様々あるが、魂が進化の途上で出会う「宗教」という雲はどれもある一定のレベルの層に留まっている。この層の厚みは壮大な霊性進化の旅全体から見ればほんの些細なものに違いないが、このスペクトラム中には多種多様な雲がが存在しており、多くの魂たちにとって、ここを突破するのはなかなか簡単ではない。

霊性進化の旅というのは、あたかも地球の重力を克服して宇宙に向かって上昇してゆく旅のようなものと僕はイメージしている。上昇を続けてゆくと対流圏、成層圏、中間圏、熱圏などの層(それぞれの層の中でもさらに細分化できる)を通過してゆくように、魂もそのレベルが上がってゆくにしたがって様々な層を突き抜けてゆくのである。概ね地球人の魂は、いわば気象現象が様々に変化する対流圏のような中で、多様な出来事を体験させられている比較的若い魂のように思える。魂は体験する事で「まなび」を得て、さらに上昇していくのである。そして、その途上に出会うのが「宗教」という雲である。そこはある意味、疲れた体を休められる休憩所、あるいは避難所、あるいは学校のようなところといっても良い。同じ雲に集まってくる魂たちは霊性のレベルが似ているため、お互い葛藤もあまり感じない。つまり、そこの居心地はまんざら悪くはないのである。いや、むしろ、人生のゴールを見つけたかのように満足しきってしまう魂さえ現れる。そして、そこにとどまる事を頑なに固持するのである。それは、つまり、「信仰」という名の下に。

僕は宗教というのは神様が仕掛けた「仕掛け」(「わな」というとちょっとネガティブな印象であるが宗教の種類によってはそう呼んでもおかしくない)であると思っている。しかし、どんな魂も進化の過程においては絶対に避けて通れない「仕掛け」であるように思う。川を遡上する鮭の性質を利用してこれを捕獲するインディアン水車という「仕掛け」があるが、「宗教」はまさにこれに似ている。常に進化向上しようとする魂の性質をうまく利用して「宗教」に入信させてしまうのである。

宗教人と言えども、その霊性において未成熟であることは人類歴史を見れば明らかであろう。思想・信条の違いから敵味方に色分けをしてお互いに殺しあってきたのがホモ・サピエンスの歴史であった。イデオロギーもある種の宗教であるから近現代史においてもそれは継続中である。しかし、現代、最も恐ろしい「わな」は「拝金主義」という名の宗教かもしれない。何れにしても宗教という雲の中は居心地がよく、長い間安穏してしまう魂は実に多い。しかし、魂というのは進化する趨勢を持っているので、いつの日かその雲を突き抜けて上昇する時が来ることは間違いない。

宗教について偏見や嫌悪感を持っている人たちは常に一定数存在する。その多くは霊性のレベルがそこまで達していない下位の魂たちである。そのレベルを超えてしまった魂たちも宗教には近づかないが、それは宇宙意識に目覚めたからに他ならない。彼らの多くは宗教の功罪について直感的に理解できるようになっている。宗教という雲を突き抜けて上昇したのであるから当然で、ドクマという制約の檻を超越して、全体を俯瞰できるようになったからである。

この雲を突き抜けたとき、人はいわゆる「アセンション」を感じるものと思われる。「さとり」に近づいたことを自覚するかもしれない。このレベルに達することは、長い進化の旅を続けてきた魂にとってまさに劇的なことなのである。意識レベルの明らかな変化を自覚することだろう。それはあたかも対流圏を抜けて成層圏に到達したような変化である。地球に住まう人間の霊性がこのレベルにまで達したならば、間違いなく真の世界平和が実現するだろう。その人々の割合は着実に増えてはきているものの、人間の「無知」から来るさまざまな害毒が自らの生存を危うくしているのも事実である。もし、そのせめぎ合いの間にタイムリミットが来てしまえば、現代文明と人類の大部分は滅亡し、ゼロからやり直さなければならなくなるかもしれない。しかし、こういうシナリオは過去にも何度も起こったことである。霊性の進化速度が文明の発達速度に追いつかないのである。

父の辞書に宗教という文字はなかった

僕の親父の話をしよう。父は宗教には全く無関心で無縁の存在で生きてきた。しかし、のちに息子である僕がある新興宗教に傾倒し、いわゆる日本社会に敷かれた「決まったレール」を逸脱したと知ったとき、宗教に対して偏見と嫌悪感を抱くある一定数の人間の一人となった。僕が学生時代に情熱を注いだ密教の関連書籍を(100冊ほどを実家に置いてあった)父は自宅を新築する時に真っ先に躊躇なく捨てた。宗教が息子を完全にダメにしたと思っていたのだ。それは父がちょうど還暦を過ぎた頃のことだった。40年間勤めた会社を退職し、これからの第二の人生を新築した家で妻と二人で悠々自適に送ろうと父は考えていたに違いない。退職金のほとんどは家の新築のために費やしたが、勤続年数が長いだけあって年金だけで十分に暮らせる余裕があった。「霊性の進化」が人生の目標であった僕は「家を建てること」を人生の目標に据えていた父にとって、全く理解不能な狂人であったことは間違いない。かくて、父は人生の目標を達成した。

ところが、ほどなくして、父は心筋梗塞に襲われた。それは隠居暮らしをまさにこれから存分に楽しもうとしていた、最初の軽井沢への旅行の初日に起こった。その時は幸いカテーテル治療で完治したのだが、それから5年後に再び心臓の血管が詰まり、冠動脈のバイパス手術を受けることになった。それからというもの、何かと体に不調が生じるようになり、医者と薬と病院には縁が切れなくなっていった。心臓のバイパス手術から5年後には大腸ガン、それからさらに5年後には胃ガンの手術を受けた。胃ガンの手術後、父は術後肺炎で帰らぬ人となった。「家を建てると不幸が起こる」という言い伝えがあるが、父の状況はまさにそのようであった。結局、父の老後は当初思い描いていた悠々自適な隠居生活とは程遠いものとなってしまったのである。

イエス・キリストの言葉に「たとい人が全世界をもうけても,自分の命を損じたら,何の得になろうか」というものがある。人は例外なく死すべき宿命を背負っている。必ずこの世を去る時が来るというのに、この世的な物、地位、名声を得ることを第一義的な目的にすることがどれほど虚しいことかをイエスさまは指摘されたのだと僕は解釈している。さすがに全世界をもうけることはできないにしても、大小の違いはあれ、欲望のベクトルは間違いなくそちらの方に向いている人間はわんさかいる。そして、死を迎える際になって人は初めてこの御言葉の真意を悟るのである。親父が死んだ本当の理由はその真理を悟らせるため。77年の父の人生が、ただ、その一点のみにあったと言ったら残酷であろうか。魂の学びというのは時には実に残酷である。しかし、一生かかって一つの学びが得られたならば、それはもしかしたら、非常に幸運なことなのかもしれない。何度生まれ変わっても、堂々巡りをしているだけで、遅々として成長できない魂は実にたくさんいるのだから。しかし、それも決して無駄なことではないのだけれど。

僕は、父がもうすでに転生して新しい生のサイクルを生きていると思っている。なぜなら全ての魂は進化を渇望してやまないからだ。

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