穴を掘れば思い出す

桜の木を植えるのに穴を掘れという。T氏が顧客の言いなりになって決めた場所は大きな木の近くで明らかに穴を掘るのが困難な場所。「ここじゃ根っこだらけでしょう?」と僕が言うとT氏は「きっとそうだと思います」と軽く答える。そうは言うものの、どうやら僕に一人で穴を掘らせるつもりらしい。案の定、隣の木の根っこが錯綜していてシャベルが入っていかない。「シャベルが入っていかないんですけれど」と言うとT氏はやって来て「入りますよ」と言って土の部分を掘ってみせる。土だから当たり前だ。根っこのところを言っているのだ。エゴが頭をもたげて来たのを感じて「いかん」と思い黙々とやり始めた。

「今」と繋がることを意識してこの問題の解決策が与えられるのを待った。しかし同時に「私はこんなところで穴を掘るために地上(ここ)に来たわけではない」という思いが湧き上がってきた。「必ず天が私に願う本来の自分の活動を始めてみせる」と誓った。こういう思いはこれが初めてではない。これまでも何遍も通過した心情だ。しかしあと何回こういう思いを味わえば天の願いが果たせるのか。「必ず必ず」と僕の心は叫び続けている。

屈辱の中で強いられる労働。自尊心を持った人間ならその時通過する心情は葛藤以外の何物でもない。しかし、人類歴史上この悲劇は数えきれぬほど多く繰り返されてきた。我が日本民族の歴史に限っても、あるいは日系移民の開拓者たち、あるいは硫黄島で戦った兵士たち、が思い出される。彼らの一人一人に思いを向け、自分と変わらぬ自尊心を抱く一個人である事実に気づくと深いエンパシーが湧き起こるのだ。過去の人とは深層意識でつながっているのだろう。時を超えて今でも彼らは僕を慰め勇気を与えてくれる。

442連隊に想う

どういうわけか、その晩、YouTube を開くと442連隊のドキュメンタリーがHome 画面に出ていたので、思わず観てしまった。インターネットには時々天の意図が働いているのではないかと感じることがある。

442連隊とは第二次大戦中に組織された日系アメリカ人の部隊である。ヨーロッパ戦線において過酷な前線にばかり送られた。敵性外国人として収容所に送られた彼らの家族の名誉の回復と安全を守るため、国家への忠誠心を示すため、彼らはどんな無謀な命令にも忠実に従い多くの戦果をあげた。バンザイ突撃にも似た捨て身の覚悟で敵の防衛線をいくつも切り開いてきた。当然犠牲者も膨大な数に登った。彼らはまさに日本人の魂を持った真の米国市民であったのだ。その高潔さは間違いなく日本民族由来のものに違いなく、僕は誇りを禁じ得なかった。彼らの置かれた「立場」に思いを巡らせるならば今の自分の状況など大したものではない。彼らが抱いていたほどの「決意」の半分でも自分は持っているのか。僕は自己反省すると同時にまだ頑張れる勇気を与えてくれた彼らに感謝した。


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