先日ある夢を見た。
夢を記憶にとどめたいなら夢日記をつけることだ。それは自己分析のためにも意義があることかもしれない。僕の場合、そうしようとは思っていても記録するという行為までにはなかなか至らず、これまでも大方の夢は忘却の彼方に消え去ってしまった。夢というのは本当に忘れるのが早い。よほど意識をしないと目覚めて数分も経たないうちに忘れてしまうものがほとんどである。その中には貴重な啓示が含まれているやもしれぬと残念な気もするが、簡単に忘れてしまう夢はおそらくたわいのない類のものと割り切るしかない。しかし不思議なことに何日も覚えている夢もやはりあるもので、こういう夢こそは「天の啓示」と呼んでもいいのかもしれない。何日も覚えているものだから、当然、こうして記録する時間的余裕がある。そういう夢はきっと啓示だ。
先日見た夢というのはこうだ。それは僕が近々三千万円を手にするだろうという夢である。「だろう」というのも、三千万円を手に入れて喜んでいるという夢ではない。「バナナの顔をしたサル」を探したら賞金として三千万円がもらえる、というゲームをしている夢である。そのサルの名前は「ステージ」というらしく「ステージを探せ!」というのが参加者が連呼する合言葉であった。「ステージ」は時々姿を見せるので「探せ」と言うだけならば、すでに探している(イラストのようなサルである)。それで、さて、本当に三千万円がもらえるのだろうか。と、なんだか問題提起をされたような夢であったが、僕は「お前に三千万円をあげよう」という天の声を確かに聞いたような気がした。
夢から覚めて僕はしばらく考えた。天は「お前に三千万円をあげようと思うが、お前はそれをどう使うかね?」と訊いたのだ。つまり、三千万円をもらえるのはその答え次第というわけなのである。「とりあえず銀行にでも入れておきます」と答えようものなら、「なんだ、使い道がない金ならあげる必要もないな」と天の神様は答えることが僕にはわかった。「家を買います」とか「クルマを買いたいんです」とか言っても「おまえ、家もクルマもちゃんと与えてやってあるじゃないか」とお答えになるのも知っていた。そこで僕は悩んでしまった。神様に「そうか、それならこの三千万円を今すぐおまえにやろう」と言わせるような答えとは一体なんだろうか、と。
バナナの顔をした「ステージ」という名前のおサルが何かを暗示しているような気がした。つまり、奇想天外な(食べても美味しい)何かエキサイティングなプランを、ちゃんと段階(ステージ)を追って説明し、三千万円というお金をどういう内訳で使うのかをちゃんと説明してみなさい、ということなのだ。神様が「それはおもしろい。ほな、やってみなはれ!」と言ってくれたら三千万円は必要経費として自動的にやってくるような気がした。
僕は思った。それじゃ、まるで、しっかりとしたビジネスプランを書いて銀行から融資してもらうようなものじゃないか。
ああそうか。世に言う起業家たちはみんな「バナナの顔をしたサル」を見つけた人たちだったのか。しかし、成功するか否かはそのプランが天に承認されたものかどうかにかかっている。もし仮に投資家からの融資が受けられたとしても、そのプランが天に承認されたものでなかったならば、結局負債だけを背負うことになるに違いない。しかし、もし天の承認があるならば、融資どころか意外な僥倖が舞い込むかもしれない。今回見た夢はそんな天の意向を示唆している夢だったように思う。天がエキサイティングするようなプラン。天はいつも我々にそんなプランを期待しているのだ。それは金儲けだけの目的では無論かなうまい。天(宇宙)の期待(波動)に適った(共鳴した)ものでなければならないだろう。
三千万円という数字がなぜ出てきたのかはわからないが、きっと、今、僕はそんな価値がある「バナナの顔をしたサル」にもう少しで手が届きそうな所に来ているのかもしれない。
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